誕生日
母の言うことには、元旦の朝の6時に生まれたそうで非常に迷惑だったそうです(笑)
ただ私は生まれながら右上半身麻痺の病気だったので貧乏な上にかなり親に迷惑を
かけてしまったみたいです。 そのためいろいろと「差別」を受けた事もありました。
逆にそれが今、私が差別を絶対的に憎む要因になっているのかも知れません。
その後、かなり凄い手術の後にリハビリを重ね、なんとか右手も動くようになりました
が、不思議な物で今ではその右手で商売をするようになっているのですからね。
他にも今だから笑い話になりますが、実は幼い頃の交通事故で一度頭蓋骨も木っ端微塵
になってまして、当時の新聞にも載ったくらいの大事故だったのですが、私も奇跡的に
助かり、頭に包帯やギブスなどを付けて通学していたために友人とかは気味悪がって近
寄りませんでしたね(苦笑)、でもやはり差別の辛さを味わった数カ月でした。 もっ
と最悪だったのは、事故を起こした相手が逃げてしまい、損害賠償とかも取れず、はっ
きり言って、かなりどん底の生活を余儀なくさせられました。今ではでこぼこの頭の形
が当時の名残ですね(苦笑)。
ただ、そのお陰で母親からは邪魔者扱いで虐待されることになりました。
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バイト探し
バイト探しの頃の思い出と言えば、それほど裕福ではなかったので取りあえずお金にな
るやつと思って、「死体洗い」とか「清掃車洗車」とか、かったっぱしから電話しまし
たね(^^;)、まあ全部断られましたが、そんなもんで当時は喫茶店のウエイターをたまに
していました(苦笑)。 でも実は一番最初のバイトと言うのが、12歳くらいで、家
計を助けるために近所の親戚が務めている幼児製品を包装する仕事でしたね、他には伝
票整理やクーラー取り付けなど、主旨がバラバラなバイトをしていたと言う(苦笑)。
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東映動画スタジオ
東映動画スタジオを紹介してくれたのは、当時私が入っていた無線技術部の部長さんな
んです(^^;)うちの学校は部活の掛け持ちが可能だったので、私は他に当時コンピュータ
ー部とテニス部の計3つの部に席がありました(笑)、話は戻りますが、東映では最初
は掃除とか雑務を担当しまして、その頃はほとんどのセルをゴミとして捨てていたので
それをまとめたり運んだりするのも私たちの仕事でした。 1年くらい続けた頃でしょ
うか、内部にも友人が出来、分かってきただろうとの事で、見学者の案内の仕事をする
ようになりました。 アニメブームが出てきた頃かな。 もっとも、シャイなアニメー
タさんたちは見学日が来ると、見られながら描くのは苦手らしく(苦笑)、ほとんどが
お茶とか飲みに行ってて、留守がちだったのも確かですね。 そういう事や事務の手伝
い、アニメの手伝いを重ねて行くうちにアニメの世界をかいま見て引き込まれて行った
訳なんですが(苦笑)(確か当時の日給は1000円くらいだったかな?ただ東映の場
合はギャラ以外にも東映撮影所の食堂の食券も貰えたので貧乏学生の私にしてみれば、
最高に嬉しかったですね(⌒▽⌒))その頃は東映と自宅とを自転車で通っていたので、
途中の道にある喫茶店によく出入りしたものです。 それが運命を変えた「まんが画廊
」と言う喫茶店だったのです。 ここで多くの人に出会い、勉強をさせてもらいました
。 中には有名漫画家になった方もおおくいますし(名前をあげたいが、当時の事を隠
してる(^^;)人もいるみたいなのであえて、略させてもらいます(^^;))。
本当に楽しかった東映バイト時代でしたね。(⌒▽⌒)
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コンピューター会社
コンピューター会社の思い出は、さしてないのだけど(^^;)現在では上場になり、ボーナ
スもすごいとの事なのですが(苦笑)、そう考えると、いた方が良かったかなぁって思
うときがあります。退社した理由は、笑うかも知れませんが、一つはネクタイを締める
のが下手だったのと、なぜかプログラマーで入社したにも関わらず、ちと…、喉を潰さ
れまして…(^^;)イエ、イジメジャナイデスヨ、声が出なくなったと言うのもありますね、おかげで
いまではハスキーボイス(苦笑)まあ、そんなとこですか?(正確な金額は忘れました
が、当時の初任給は12万円くらいだと思いますが…、当時の説明会で昇給の説明を聞
いたときに現在12万…、十年後には16万円と言う事だったので(あくまでも当時の
計算ですよ(苦笑))、こ、これは辛いなって思ったのも確かですね(^^;))
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フリーのアニメーター
もろもろの理由で退社後、親に2年だけわがまま言わせてもらい、アニメの道に行こう
と決意する。 まあほとんど同時に「まんが画廊」で仕事を紹介してもらっていたから
言える事なんですけど(笑)フリーと言っても、ささやかなスタジオはありまして、ト
タン壁、トタン屋根、土の床という、すごいトコで(苦笑)、雨が降ると会話が出来な
いと言ううるささ(^^;)、暑さも寒さも直撃と言う…。そこにいた先輩スタッフは、いま
やミンキーモモや数々のアニメ映画の監督で有名な湯山邦彦さんと現在も作画で活躍し
ている増井 泉さん、そして私の3人でした。 私の当時の仕事のメインは魔女っ子チ
ックルの絵コンテの手伝いと一発貫太くんの作画でした。 でも悲しいかな、一月の収
入と言っても2万円程度でしたので(コンピュータ会社とはかなり違うが(苦笑))、
一日にコロッケ2個がすべての食事でした。(私の記憶が正しければ(笑)、当時の動
画1枚の値段は60円だったと思います(^^;)。)おかげで当時はスリムな体型を維持出
来ましたが(^^;)。最高の贅沢は立ち食いそばでかけうどんを食べたくらいですか(苦笑
)。家具に関しても、湯山さんと粗大ゴミ置き場から冷蔵庫を拾ってきたりして、まか
なっていました(笑)。 かの有名な「アイスコーヒー事件」はその後に起きたのです
(笑)。 あの頃はまだアニメーターと言う仕事は世間的に認められているとまでいっ
ていなかったので、人に何やっているのと聞かれると説明に困りましたね(^^;)、そのた
めか?、結構支払いもいい加減な所も多くて、いまだ(笑)未払いの仕事も多かったで
す(^^;)(もう完全に時効だわな(^^;)) まあ今となっては、一番思い出深いスタジオか
も知れませんね(⌒▽⌒)
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葦プロダクション
唐突にそこのトタンのスタジオのオーナーが外国へ行くと言うので解散となりまして、
三人ともオーナーの紹介で葦プロダクションへ行くことになったのでした(^^;)。 ちょ
うど当時は葦プロはプティアンジェと言うアニメをやっていて、何作かやらせてもらい
ました、もっとも一番驚いた事は壁も屋根もあることですね(^^;)しかも給料制!(当時
は6万円だったかな?)もう大幅アップですごく嬉しかったですね(⌒▽⌒) 当時は井
荻にスタジオがあって(今は違いますからね)、街もひらけてたし(^^;)、いたれりつく
せりで新鮮でした。 まあそこで今のカミさんに会ったんですが…(^^;)この頃は一番出
会いは多かったかも知れませんね、私が葦プロに入って少ししたら、いのまたむつみさ
んたちが見学にきて、入社、その後も今でもつき合っている友人達に会えたのもこの頃
ですね。半年たったくらいかな、葦プロには男のスタッフがほとんどいないので(作画
ね)、たまたま新番組のメカニックデザインの仕事が入ってきたんです。 それが宇宙
戦士バルディオスだったのです。もう緊張するは、失敗するは、試行錯誤する事、数百
枚(^^;)やっと出来たのがあれです(笑)もっとも何枚描こうが給料なんで、金額は変わ
りません(苦笑)。 ちなみにそれまで私はメカらしいメカを描いた事もなかったと言
う…(^^;)。
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サンライズ
葦プロを退社した後、同じく学生時代に見学とかをさせてもらったサンライズの知人に
相談にいき、仕事をもらいに行っただけなのになぜか、入社してしまったと言う…(笑
)、最初の仕事はダイオージャのパワーアップメカのデザインだったかな?(う〜ん、
確か当時、基本給3万円で後は出来高制だったかな?)これはサンライズ自体は悪くは
ないのですが、この頃から「生活のため」のアニメーター以外にも「趣味と実益」のア
ニメーターも何人か増えてきたので、生活費を稼ごうとすると、いろいろな意味で妨害
はされましたね。 「貧乏人」と言う言葉で結構馬鹿にもされましたからね、その後は
「絵柄の好み」の派閥に妨害された事もありましたね、個人的には自分の絵をうまくし
たかったのですが、当時の流行の絵柄を描かないと、村八分と言う傾倒もありましたか
らね。 最後にはまったくの無実なのにプロデューサーから作画の人までに「泥棒」扱
いをされたので、自分で絵の勉強も出来なくなったので、自宅作業が中心となりました
ね。 その時に一部の心ない人たちが妙な噂を流したために未だに私に嫌悪感を抱いて
いる人もいるようですが…。 まあ「貧乏人」でしたから、ある程度、作業場を選ばな
いといけないのでしょう。 ただやはり当時、私と同じように絵を勉強したいがために
スタジオから独立した友人達がいて、その友人達とは今でも懇意にしてもらっています
し、私の事も理解してもらっています。 そのような友人達に会えたこと、同じように
社内でも私の事を信じてくれて、いつでも相談にのってくれた方も何人かいたので、い
までもその方達には大感謝で、もちろん、その方達がいたから、今の自分があると信じ
ています。 本当にありがとうございます。
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安彦良和氏のスタジオ
サンライズのエピソードの話と多少重なる事もあるのですが、サンライズに入社して劇
場版ガンダム3部作が終わりかけたあたりかな、安彦さんがスタジオを設立するとの事
で、そちらに移り、劇場版ガンダムやクラッシャージョウをやることになって、ジョウ
をやったことで人生が大きく動いたと言っても過言ではないでしょう。(この頃は劇場
版と言う事もあってか、どうか(^^;)、動画一枚が180円だったと思いましたが…(^^;)
? 私が始めて動画をかき始めて約5年、3倍に上がった訳なんですが、実は始めた頃
は下請けだったと言う事もあって、中間マージンを引かれて、あの値段ですから実際は
アニメーターのギャラは何年も変わらないのも事実でしょうね。ちなみに原画は劇場版
は1カット2500円だったかな?ホント下請け育ちの私にしてみれば、本社勤務?と
言うのはすごいなぁと思いましたね。 アニメ会社によっては、ギャラの90%を中間
マージンで取っていく悪質な所もありますから(; ;)しかも中間にいる人間が一番大変だ
からという言い訳ですからね、たちが悪いっすよ(; ;)みなさんも気をつけてね。)でも
安彦さんの所での経験はいろいろな形でCGに漫画といろいろと自分の中で広がってい
きましたね(⌒▽⌒) まあ最後は当時そこにいた女性スタッフの誤解と勘違いから追い
出されることになっちゃったんだけどね(泣)、何か未だに誤解も解けずにその子たち
からは嫌われているみたいだけど、信用失ったら、この業界こんな長くやっていける訳
ないけどね。 はてさて…
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パソコン誌
本当はパソコン誌のマスコットキャラの仕事は安彦さんに来たのですが、安彦さんがパ
ソコンとかは苦手と言う事で、私がやることになったと言う…、でも安彦さんのファン
の人、恨まないでね…(; ;)。 そのパソコン誌の出版社に出入りしているうちに、漫画
編集者の方とも知り会え、漫画デビューをする事になったんです。ところが、なぜかパ
ソコン誌関係の方には長くは縁がなくて(^^;)、中には600万円使い込んだあげく、違
う世界(笑)へいってしまった編集長や、数十人の作家の反感を買いながら、平然と違
う世界へ(笑)いってしまったCD誌編集長などなど結構回りにおおくて、ゲーム制作
者にも行ってしまった方も多く、結局日の目を見なかったゲームソフトは私が関係した
ゲーム関係の7割近いですね(; ;)。つまり、うまく行ったソフトは3割くらいなんです
(; ;)、悲しいのが、その全てが、自分の知らないところで制作中止になっている事で、
自分に責任があれば、諦めもつきますが勝手にいってしまった方の世話まで出来ません
よね(; ;)、中には何を勘違いしたか、私の生原稿を勝手に雑誌プレゼントにする事件も
ありました(; ;)。(編集長が言うには、GENの原稿は価値なんかないんだから、捨て
るよりはマシと思え、だそうです。) 中には私が早めに危険な事を察して、注意や謝
罪を求めたのですが大きな会社にしてみれば、編集長とかが、そうだと知られたために
私から仕事を奪ったり、出入り禁止にしたりと、悪役にして編集長の悪事を隠す出版社
もいくつかありましたね(; ;)。 まあお陰で最近では優良出版社やゲーム会社を見極め
られる力が少々ですが、身に付いたと自負しております(苦笑)。 これから持ち込も
うとする人、怪しいと思ったら、メールで聞いて下さいね、経験を正確にお話ししまし
ょう(^_^)。
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きっかけ
きっかけと言うほどではないが、それからパソコンやゲーム関係の仕事が増えてきて、
新しいジャンルの仕事の開発で楽しかったのですが逆を言うと、一番被害があった業界
でもありました(; ;)。最初に私がやったコンシューマー系の仕事は、「水晶の龍」と言
うファミコンソフトのキャラクターデザインなんですが、当時ゲーム会社と私の間に入
っていた会社から私にデザイン料として、約120万円を頂いたのです。 もちろん当
時の貧乏少年の私にとっては、ものすごく高額なギャラで嬉しかったのですが、実はそ
の後、何年もしてからその頃のゲーム会社の方とお会いすることがありまして、その方
が言うには「元さん、すごく儲かったでしょう!?」と言うのです。 あの金額はすご
く儲かったかった内に入るのかな?とよくよく聞くと、あのソフトは、どうも当たった
らしく資料によると約40万本ほど売れたそうで、んで、そのゲーム会社から私へのギ
ャラとして、中間に入っている会社に支払われた金額と言うのは、私がもらった金額の
10倍以上の金額だったのです。 つまりその中間にいた会社は私のギャラの90%以
上を中間マージンで取ったことになるんです(; ;)。 さすがに年月も経っていましたし
、当時の私には、弁護士を雇う知恵などもなく、泣き寝入りになってしまいましたが、
その後私はその会社に対しては自分の仕事の正当なギャラを請求する事を続けましたが
…、そのうちそこから仕事も来なくなり、嫌われてしまったみたいです(苦笑)。 も
っとも内部の人に聞くと、いまでもそのような事は行われているらしく、前に聞いた話
は、本来20万円の仕事で作家本人に払われるギャラは2万5000円だと言う…。 
私が怒って、その会社の役員に聞くと、「作家は一人でやってるじゃん、我々は多くの
人数で動いているから、お金もかかるんだよ!」との事。 …ちなみにそこで働く多く
の絵描き達はこの事実を知らない…。 …90%のマージンは取られる、怒れば仕事を
失う、こんな理不尽な状況が今でも続いているのです。
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二本連業
安彦さんのスタジオを退社後、サンライズの友人達とスタジオを設け、漫画とアニメを
両方やるようになる。その頃にあの「日ペンの美子ちゃん」の仕事が舞い込んで来たの
であった。当時の「日ペン…」のギャラは広告漫画という事もあって、少し前の一月分
の給料にあたる原稿料だったのですが…、チェックその他で、逆に厳しく、一ページを
描くためには30本くらいのネタとかを考えないといけなかったのです。はてさて、安
いのか、高いのか、分かりませんね(^^;)。 その後、漫画の仕事がメインとなってきた
ので、個人的に独立し、平成3年に数人の作家と有限会社 夢屋を設立する。
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         はてさて、この先どうなることやら…