いっぱい いっぱい ありがとう 完全版最終回直後の掲載

ついに先ほど、おジャ魔女どれみシリーズ全201話が終了しました。
ご覧になったファンの方たちの感想はまちまちでしょうけど、ここからのページはあくまでも自分の考えを中心に書き込んでありますので、御了承の上お読み下さい。

自分もどれみのファンで、あまりにも好きだったために10年以上もアニメをやっていなかったにも関わらず、どれみに少しでも近づきたくスタッフになった経緯などは、他のページにも書き込んでありますので、いまさら書くことでもないでしょうが、全201話の中のたった4本しか自分は参加しませんでしたが、それでも多くのコトを学ばせて貰い、思い出も山ほど頂けました。
逆にこっちは演出や作監の方たちに迷惑をかけるばっかりで、本当に情けなく自己嫌悪に陥るコトもありました。 実際どれみの技術の高さは自分がアニメをやっていた頃の比ではなく、枚数こそはTVシリーズであるけど、内容的には毎回毎回劇場版なみの感じさえ受けるくらいでした。

それほどの高水準のアニメにあって、こんな未熟な自分を参加し、使って頂けることは本当にファンとしてもアニメーターとしても嬉しいことでもあり、スタッフの方の心広いことに感謝したいと思っております。
まして、この作品のお陰でいろいろな方との出会いも出来たし、その方々から学ぶことも多かったし、どれみのお陰でいろいろ見えてきたモノもあったし、精神的に健康にもなれたし(謎(笑))、自分の中に素晴らしい引き出しが一つ出来た気分です。 おそらく今後の仕事にもどれみの仕事に参加できたことは、多大なる影響を与えて貰ったと思っています。

そして最終回ですが、まさか自分が参加できるなんて思ってもいなかったし、そんな重要なパートを任せて頂けるなんても想像もしていなかったのは事実です(そのため多大なる迷惑をかけたと思います(泣)。 ホント何度も言っていますがあまりにも好きな作品だったために反省の念はぬぐい切れません。)。
打ち合わせの時に監督から、担当シーンの説明を受けまして、まさかエンディング直前のカットとは思っていなかったので知ったときの頭の混乱ぶりは言葉にしようがないですね、ましてシリーズで初めて、どれみは全員にわがままを見せます。 子供として、成長していく上で迎えなくてはならない「別れ」を受け止めなくてはいけませんからね。
しかしクラスメートの暖かい気持ちがどれみを包んで、今一歩大人への階段を上ったわけですよね。
シリーズとして、どれみのやさしさや思いやりが随所に現れていたが、実は本当は自分も寂しかったのが判り受け止める。 最終回として最高の終わりだと自分では思っています。

ホントそれに参加しているって言うのは、もう未だに信じられない気分で、変な意味、未だに舞い上がっている自分も少しありますね(苦笑)。
いまだ漫画やコラムや講師などの仕事を兼任しているので、ホント少ししかお手伝いできないのが残念ですが、どれみの仕事は充実感や勉強が出来た気持ちがあっても、後悔や精神的辛さは全然なかったですね(肉体的辛さは久しぶりにありましたね(苦笑))。
それは作品の性質にしてもそうですが、スタッフの皆さんが本当〜〜〜っに良い人ばかりで、何でみんなこんなに良い人なんだ〜ってしょっちゅう思いましたね。(ある作画スタッフの方の証言だと(笑)、スタッフがみんな歳取っているから、角が丸くなっているんだよ、とのコト(笑)。) 悪いですが、今までブランクを覗いて十数年アニメ業界にいましたが、いじめと差別しか記憶がなくて、多少なりともトラウマがあったので、どれみでもそうかなぁって思っていたら、見たこともない世界でした。 だからなおさら、あのどれみの世界を作り上げている人たちは、あのどれみの世界や社会を理解している人なんだと、本当に嬉しさが倍増しましたね。
アニメ業界に足を入れて27年目に、やっと落ち着いて長くやれるトコにたどり着いた感じでした。(監督や作監は、おいおい落ち着くなよ!って思っているかも知れないが(苦笑))
HPの中にも書きましたが、今雑誌業界も社会的にも、もちろんこのインターネットも不況や若者の低年齢層化などと絡み合って、非常にイヤな時代になってきています。 自分のコトしか考えず、人の気持ちにはみじんも興味を持たないで、自分の意見が社会で一番正しいと思っていたり、認められないと、それは周りが悪いと切れる人間、本来の漫画雑誌の成長から外れ、安全な話を流行に沿った形で載せ、個性が消えつつある漫画、脱線した社会に壊れた列車が窓からゴミを捨てながら走っている、そんな感じに私は思えます。

それはまさに「世界名作劇場」などのアニメが消えた頃より加速度がついて、どんどんモラルやマナー、人間関係の結びつきなどが落ちていくような気がします。 少し前に雑誌の対談で永野のりこ先生と話したときに、「さかきばら事件」の世代は特撮ヒーローを見ていない、ウルトラマンシリーズがなかった時代のこどもたちだと言う話がありましたが、自分は業界にいて、子供たちに伝えたいモノがどうしたら伝わるかを考えたときに、「名作劇場」や「ウルトラマン」以外の作品ではなぜ伝わりづらいかを考えた時がありました。 ふと「人」と言う要素が浮かびました、前の二つの作品には確かに悪人は出てきますが、ほとんど個人的なモノですが、他の作品の場合(もちろん全部ではありませんよ、一部の作品ですよ。)「人」と「人」が集団で争ったり、戦ったり、傷つけあったりしているのですよ、もちろん名作劇場にも争ったり、戦ったり、傷つけあうことはありますが、シリーズ中でもほんの少しであり、ほとんどがそれを助け合い、慰め合う社会性や協調性を前面に出し、その人たちがその悪人に対して、全員で復讐するとかは、まずありません(ラセーヌの星のフランス革命とかは歴史上の事実のフォローですが)。 ところがアニメによっては、人同士が毎回毎回戦っているのがたまにあります。 もしこのようなアニメだけで育った子供がいたら、社会をどう思うでしょう。
絶えず、社会では戦い続け、相手を倒さないと自分がやられる、だから自分の意見だけが正しいし、聞く気もないと思われてもしょうがないのでは? ウルトラマンも戦いと言う面では、そうですが、あくまでも人間以外の悪の具象化された怪獣とかを「人」の力で倒すと言うのが学べます。 社会に出たときに、目に見えないような恐怖に打ち勝つためには、仲間と一緒に「人」の力で勝とうと思うのではないでしょうか?
インターネットの発達はいろいろな情報を手に入れやすいとともに、奇妙な人種も作りあげました。 いままで意見も言えず、引きこもっていた人に匿名性を持たせ、意見をさせると言うことです。 ところがこれが諸刃の剣となり、社会性や協調性の未成熟な人まで簡単に出来るようになたため、類が友を呼び、人との協調性とかを気にしなくても、意見が言えるようになってきた。 このため社会の中から少しずつ協調性を持つ人間も消えていき、殺伐とした世の中になってきた。 結局悪循環が生まれ、いまだに日本では「他人と話せない人間」「笑顔の無い人間」「慢性的二重人格(インターネット症候群、チャット症候群と呼ばれているモノです。)」
おそらくどれみの世界は我々がいる世界よりはハイテクには遅れているでしょう。 どれみの学校でもインターネットなどはなかなか浸透していないらしく、中田くんを始め、数人しか使えないみたいですし、携帯電話もほとんどの生徒は持っていません。 この世界をたまに人は変だと言いますが、十年くらい前はごくごく普通だった世界だった訳です。 先に書きました中田くんの話(無印の48話)でも最終的には「メール」ではなく「話せば済む」と気づくわけです。

例えるのも失礼かも知れませんが、「五体不満足」の作者も言っていましたが「身体障害は不便ですが、不幸ではないのです。」と。 携帯やパソコン、あれば便利だし、自分も助かりますけど、なければないで、不便だけど、不幸ではないじゃないですか。 どれみの世界にはたくさんの友達がいろいろな形で助け合い、励まし合い、成長していくわけです。 ですから自分では「今現在でも」これが普通ではないのかと思い続けてきました。 そしてもちろん、この世界は夢でも幻でもなく、ごくごく普通に存在している世界なのです。
もし自分のまわりの世界がどれみの世界とかけ離れていたら、「無理だ」とか「嘘だ」と言う前に自分だけでもその世界を愛して、目指す努力をすれば良いんじゃないでしょうか?
好きとか愛する気持ちがあれば時間がかかるかも知れないけど、どれみの世界のような「ごくごく普通の世界」になっていくんじゃないかな? それだけ好きとか愛する気持ちは世の中の何よりも強いと思いますよ。
面白い例ですが、私の知り合いで漫画界の大御所先生のトコでアシスタントの面接があったそうです。 何人かいたのですが、その中の何人かが先生からの「ボクの作品はどう思いますか?」と言う質問に対して、一人は感動した時の話や、自分が影響を受けたときの話をしたのに対して、一人は他の漫画家さんの作品をけなし、誹謗中傷した上で、その先生の作品がそれらより優れているコトを話したそうな。 もちろん結果は好きとか愛しているとかを話した人が雇われ、他の作品より優れているコトを言った人は、即座に追い返された話を聞き、その先生がこう言ったのが印象でしたね「漫画を読む選択肢は読者にあるのに、嫌いなモノを読んで、自分が嫌いなコトを主張する人間は、成長できないんだよ、ひたすら嫌いな作品を探す方に力を入れて、結局好きなモノに没頭する時間さえ失ってしまう、選択肢があるのだから、邪魔だからとか、目障りと言いながら読む前に好きな作品をどんどん増やしていった方が成長に役に立つんだよ。 とことん好きになれる気持ちが育っている子は、いくらでも成長できるし、逆はいつまでも子供のダダと変わりないままなんだよ。」
他にもこういう伝説的な話もあります。 友人の島本和彦先生が代アニで講演したときの話です。(その時は自分は後ろで聞いていました。)
もちろん講演を聴きに来ている生徒は、島本先生のコトが好きで興味がある人ばかりと思っていました。 もちろん代アニの先生方も…。
ところが質問を求めた時、一人の生徒がこう言ったのです。 「先生は仮面ライダーとかウルトラマンとか他人が作ったキャラクターを使って漫画を描いていたりしますが、漫画家としてのプライドはないんですか?」と。
これに関しては代アニの先生方も一瞬真っ青になって、自分も驚きました(…でも、言える立場かどうかも判らないのかね(苦笑))。 緊迫した空気の中、伝説的なセリフが島本先生の口から出たのです!

「…君は…、羨ましいんだね!」

言われた生徒は赤面。 とたんにしどろもどろになり「え、いや、その…」とかになり。
先生は「うんうん、そうだろうそうだろう、君も頑張れば、ボクみたいに好きだった作品を自分で描くことが出来るから頑張れよ!」と締めて…。
後ろでは、自分や代アニの先生方もみな満面の笑顔で小さな拍手とガッツポーズ! まさにやったねの瞬間ですね!
結局その生徒はその講義を衛星中継していた代アニの全国校に恥と幼さを晒し、卒業後も仕事につけなかったコトを風の噂で聞きましたが…、今はどうしていることやら。
そう…、どんなにあなたが嫌いだろうが、結局は好きという気持ちに負けるのですよ。

自分のアシスタントや友人もそうですが、インターネットを近年初めて、次々と人付き合いが悪くなり、20年来の友人なども消えていきました。
人とのつき合い、友情って、そんなモンなんでしょうか?
本当の友人は、線路の一本一本のように、どこまでも対になって、別れることもなく走っていくモノではないのでしょうか?

そういう人間関係に自分も悩み、非常に落ち込んでいる状況の頃、どれみに出会ったんです。
そこには自分が悩む必要がない頃の世界観が、道徳観があったのです。 人との繋がりを再認識でき、自分が必要であり、他人を必要とする。 個々の人間が多くの人間にとって必要であるということがどれみには見えた。
たとえ小さな力でも、人は協力すること、助け合うことを知っている、だから恐らくはオリンピック選手と赤ん坊の差以上はあるであろう、先々代の女王の試練にも打ち勝ち、心を開くことが出来たのだろうと思います。
日本人は戦後の廃墟から数十年でこれだけの国に出来たのは、やはり人間同士の協力があったからだこそですし、別に携帯電話が無かろうが、インターネットが出来まいが、国の復興とかには、何の障害にもなっていないはずです。
どれみの作品の中にも「国」に関しての話はたまに出てきます。 も〜っとのももちゃんの親友の話や、身体検査の時の話や、も〜っとの41話「魔女ガエルの村おこし」などでは日本人を信用しない魔女まで登場します。
しかし、どれみたちはそんなマジョリードの閉じてしまった心まで、彼女たちの持つ「協力」と「友情」で開いてしまいます。 もともと日本人の誰もが持っていた「本質」が次々と人間不信だった魔女たちの心を開く。
見ている方も同じだと思います。 現代社会の闇のせいで閉ざしてしまった心が、彼女たちと出会うことで、再び開くことが出来るのです。
もちろんのコトながら、かといって「日本人」とか「日本独特のヒューマニズム」を強調して押しつけているかと言えば、そういうわけでもなく前記の話数の中には、アメリカの外見や成長の違いによって人を判断しない良さも語られています。
しかしそのようなコトが語られているにも関わらず、劇中には日本が正しいとかアメリカが正しいとかは決して断言はしていない。
このようなコトから自分なりに考えるに、どれみと言う作品は、確かに荒廃した日本、日本人に本来の日本人の心を思い出させると共に、それ以上に人類愛、人間愛まで考えさせると言ってもいいのではないでしょうか?
大げさかと笑う方もいるかと思いますが、「大げさ」と呼ぶほど「人類愛」は凄いモノでしょうか? 人を愛し、助け、慈しむ、はっきり言えば誰でもすぐにでも出来る、ほんのささいな、とてもささいなコトが「人類愛」なんじゃないんですか? 何億円も寄付して、戦争の兵器を世界から無くすことが「平和」への道と説く方もいらっしゃいますが、集約すれば、あなた自身がまず何を出来るかを考えれば、答えはまず最初の一歩として、人を友人を少しずつでもいいから愛していくことが大事であって、それが二人三人と増えていけば、自然と世界は「平和」へと戻って行くのではないのでしょうか?
どれみたちは別にお金や魔法を駆使して問題を解決しているわけではなく、最終的には人の心と心の結びつきが一番の武器になっていたと思います。 もちろん魔女の世界の絡みもありますから「魔法」と言う要素は必要ですが、考えるに「魔法」とは人間社会で言うところの「文明」なんじゃないでしょうか? あれば確かに「便利」だろうが、無くても生きていく上では何の障害にもならない。 そう考えると、どれみの世界は現代の物質文明などへの警告を促しているとも考えられるんです。
最終的に「魔法」を手放すどれみたち。 いろいろな意味が考えられますが、やはりその中の一つに「文明」と言う考え方もあって良いのではないでしょうか?
どれみの作品を見ていて、ふと彼女たちがいろいろな試練とぶつかり道を進んでいく様は、人間がやらなくてはいけないことや、心の闇に光を入れる方法なのではないかと思うことがあります。

どれみの世界の中には「権力」も出てきます。 「女王」などもその一つの象徴でしょう。 しかし現在の権力者のように「権力」と言う、おいしいエサに執着する権力者ではないはずです。 国や世界をまとめるため、人を守るために存在する権力者であるはずです。
「#」の最終回では、自らの命をかけて「どれみ」たちの呪いを解こうとする女王様が描かれています。 権力的には一番上と一番下のような関係ですし、女王にとっても、別に彼女たちがいなくても「ハナちゃん」が無事なら何の問題もないはずです。 しかし本当の君主は人々のために存在する。 こんな当たり前のコトを作品では描いています。
同じように、「オヤジーデ」に関するエピソードでも、いくつかあります。 「#」の最終回近くでは、「爵位」よりも「ハナちゃん」を選択していますし、「ドッカ〜ン」では「保育士資格」よりも「ハナちゃん」を選んでいます。 きっとオヤジーデは権力よりも大事なモノがあることを本当に知っていたのでしょう。 今日びの子供を見殺しにする保育士がいる時代、オヤジーデのような保育士がいたら、どんなに素晴らしいことでしょう。 外見だけの権力者が多い中、心の中の貴族と言うのがいてもよいのではないでしょうか?

他にもどれみの中には「いじめ」の問題、「介護」「老人」問題も多々出てきました。 しかしそれらを解決に導いたのは、金でも物でもなく、人のために、人を助けたいために、単なる小学生が精一杯人を愛しただけ…、たったそれだけで次々と問題が解決していく…。
たまにインターネットなどのファンサイトを見ていると、どれみを見ている人の中には、ご都合主義だとか理想論だとかを言う人が少なからずいることは確かです。 しかし、その方はきちんと心から人を愛したことがあるのでしょうか? そして愛されたことがあるのでしょうか?
確かに世の中には、裏切りや偽善などが存在し、せっかくの気持ちも無下にされてしまうコトも多いでしょう。 しかし愛する気持ちを忘れてしまったら、確実に自分も愛されなくなってしまいます。 何度も何度も傷つきながらも頑張って、愛すること…。 その大事さを、自分はどれみの作品から学ばせて貰いました。

悪く言えば、どれみたちは生きることにヘタなのでしょう。
「ドッカ〜ン」の34話「ババといつまでも」では、いつもどれみたちに悪たれをついている妖精ババが病気になり、どれみたちが看病するシーンがあります。 どれみたちを信用していないババに対して、マジョリカが、こいつらには下心などはないと言い切ります。 マジョリカも無印の頃は「欲」と言う物を前面に出した感じになっていました、ですから恐らく、どれみたちを見ていても、「…ったく、金を取ればいいじゃん」とか思っただろうし、そのババの巻だって、無印の頃のマジョリカだったら「馬鹿な奴らじゃ、交換条件で得しちゃえ!」って、思ったコトでしょう。 しかしハナちゃんや先々代の女王のエピソードをどれみたちと進んでいく内に、金よりももっと価値のある物が見えてきたのでしょう。 人間界では強大な力となりうる「魔法」を手に入れたにもかかわらず、どれみたちは大金持ちになるわけでもなく、どちらかと言えば貧乏くじばかり引いて損をしているコトの方が多いはずです。 やはり彼女たちも人として「一番大事な物」を知っていたのでしょう。

先々代の女王は、恐らくはどれみたちよりも何百何千倍もの力を持っていたでしょう。 しかし哀しみや憎しみに捕らわれていたために、非力な少女たちに、しかも人間の少女たちに負けてしまうのです。
どんなに強大な力でも、小さな愛が集まれば勝てると言うことも教えてくれました。
「#」「も〜っと」の最終回でもそうでしたが、誰がどうみても、どれみたちが「先々代の女王」に勝てる確率はなかったはずです。 しかし、どれみたちは「人を助けるため」に「そこに行くしかない」なら、進むしかないと言う選択をします。 例え勝てる確率が0%に限りなく近くとも、助ける「コト」が「そこ」にしかないなら、例えコンマ1%だろうが、天文学的数字だろうが、愛する人のために人間がする当たり前の行動ではないでしょうか? 少なくとも「親」と言う存在なら「子」のために迷う事なき進む道でしょう。 ハナちゃんのママであったどれみちゃんたちと同じように。 人が人を愛し、助けたいと思う気持ちには「確率論」は存在しないと思います。

どれみはよく「やな奴ぅ」って文句を言いますが、結局その子が困ると、親身になって心配し、助けようとします。 おそらくどれみにとって、学校も社会も家族も友達も「嫌い」なモノはなかったのでしょうね。
好きで好きでたまらない、その気持ちが友達からの愛に、しいては見ている私たちの気持ちに働いたのかも知れませんね。
見ている側も自分は学校や親からも嫌われているかもって思う瞬間は誰にでもやってきます。 しかしどれみを見ると、きっとどれみちゃんなら自分と友達になってくれる。 そう思えるのかも知れません。
玉木や林野くんの話もそうでしたが、嫌いな部分を見たらきりがないのでしょうが、結局どれみは、それよりも好きな気持ちを多く持ちました。 長門さんのエピソードでも自分の服を差し出すほど、友人を愛することが出来たわけです。 自分はどれみの素晴らしさ、強さはその「好き」と言う気持ちから来ているのではないでしょうか? 友達を見捨てるのと、嘔吐物に汚れる服、どちらが汚く醜く見えるでしょうか? 消える汚れ、洗える汚れなどは醜くも汚くもないはずです。 人間がやってはいけないこと、洗っても何をしても落とせない消えない汚れを付けてしまうことではないでしょうか?
もちろん、そんなどれみを暖かく、時には厳しく見守っていて、信じていた親にも現代の親に失いかけの心が見えることは言うまでもありません。

シャープの頃のどれみを見ると、ハナちゃんはどれみにとって、かけがえのない存在です。 おそらく世界の誰よりもハナちゃんを愛したと思います。 これは自分が好き、自分を認めて貰おうと思っているような人間には出来ない行動です。 好きであり、愛している全てがハナちゃんであり、例え自分が傷ついても、ハナちゃんを守る。 これは子供を持っている親は皆そうだと信じたいですが、本来これが母性本能父性本能と呼ばれるモノです。 医学界でも問題になっていますが、現在その「本能」が消えかかっている、消えている人が増えてきている訳です。 どれみのように全てを愛し、受け止めれば、どれみのように多くの友人から愛される素晴らしい存在になれるはずです。
ところが自分を認めて欲しいし、愛して欲しいと言う人がいても、他の人間やモノは愛せない、嫌いだ、と言っていれば、それが叶わないし人間としても成長は出来ないため、その責任を周りに求め、その悪循環が社会をギスギスさせているのではないかと思うのです。
一度、どれみのようにイヤなモノでもちょっとだけ好きになってみようと、考えてみるだけで、結構人生が良い方に行くんじゃないかな?(保証は出来ないけど(笑))

欲を取れば、最終回、魔女になった方がいろいろと得かと思えることもあります。 しかし彼女たちはそれを捨てた。 彼女たちには最初、目的があった「勇気」や「自立」「幸福」「家族」…、それらは魔法があれば可能かと考えていた、しかしそれは違った、彼女たちが求めている物は魔法が無くとも手に入る物ばかりであった。 魔女も認めた人間の愛の力。 そして強大な魔女すらも勝てなかった、どれみたちがみな持っていた最大級の魔法、それこそが彼女たちの「笑顔」だったのではないだろうか。 最終回の本編部分の最後のカット、あれこそが全てと自分は思い続けています。

かくいう私も、その彼女たちの魔法にかかってしまい、どれみの呪いに捕らわれてしまった一人ですね(苦笑)。
この呪いは、おそらく永遠に解けない呪いでしょうね。 いやはや…

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さて話が長くなってしまいましたが、51話の思い出をお話ししたいと思います。
●とにかく描いた描いた描きまくった(上手いヘタは別だが(苦笑))。
●制作と笑い話で話すのだが、たった4話しか参加していないのに、全生徒、全教師、全両親を描いた人は少ないでしょうねっと。(^ ^;)
●もうそのために設定書地獄ですよ。 後の方にフォトギャラリー(アニメデザイン伝説1に収録。)も作りましたが、卒業式のシーンは稲上さんの特製対比図と一気に12人の設定が見られる環境を作って描いていたのですよ(苦笑)。
●それでも描いても描いても減らない原画(^ ^;)、体格の違いからパイプいすにいかに上手く座らせるかを考えたカットとか…。(卒業式の席順は50音順なのですが、そうするとハナちゃんの隣は平野くんになるのですが、その二人をフカンで見たカットがあって、座らせるのが大変でしたね。(作監さんのお陰ですm(__)m)
●もうパイプ椅子描きたくねぇ〜(^ ^;)(^ ^;)
●大判、ふかんで生徒の中を歩くどれみたち一同。 よく見ると生徒たち、いろいろと小芝居(止めで)やっています。
●個人的原画フィニッシュは「ももちゃんが階段を上る足下のアップ」っす。
●一番時間がかかったカットは、体育館の外で待っている一同が関先生の「全員整列」のかけ声で集まるカット。 GかHセル(だったかな?)まで使って、それぞれが列に戻るカットで、数日かかったかも。(アニメデザイン伝説1に収録。)
●原画使い終わったら戻して貰って、いったい何人描いたかを数えようと思ったら、TAP(フィリピン)に行っているので、戻せないと言うことで、自分の原画や馬越さんの原画は異国で処分されるのかぁ〜って思ったら、切なくなってしまった(^ ^;)。 …でも何かもったいないよね?
●描いたキャラ多いときだと、一カット2〜30人以上は描いているので、まあ平均15人としても、かける65で975人ですよ。 …いやはや。
●まあ、全部ヘタっぴなんだけど、自分では、とにかく関先生が一番難しかったです(; ;)。 他にも髪の毛の特徴からフカンとかが描きづらかったキャラはいっぱいいましたね。(苦笑)
●4本しか参加していなかったにも関わらず、打ち上げパーティーに行けたのが嬉しかったですね。 いろいろな方とも会えたし、久しぶりに斉藤さんとも会えて、良かったし。
●でも、ホントホント、どれみのスタッフ、良すぎです!
●パーティーでは、娘が機織り機を貰えて、大喜びで機織りしています。(^ ^;)
●もう楽しかった!!!
●(仕事)やって良かった!!!
●いっぱいいっぱいありがとう!!!

これ以外の内容は同人デジタルコミック「アニメデザイン伝説 1」に載っています。